「さて・・・これで全部ですかね」
ピッ、と鋭い音が空気を切る。数秒後、ドサリと砂袋が落ちる様な重々しい音が聞こえ、その後はただ静寂に包まれた。
鳳が立っているのは殺風景な部屋。四方の壁のみならず床も天井も真っ白に統一され、扉が一つあるだけのだだっ広い簡素な部屋。
ただし、その白い床は今深紅に染まっている。
鳳の足元に転がっているのは、老若男女の死体。それも膨大な数の死体だった。
物言わぬそれを足で動かして顔を確かめ、鳳は鬱屈そうな息を吐いた。
「転移していきなり襲われたから何かと思えば…。“エデンの鍵”は同窓会でもしたいのでしょうかね」
自嘲めいた笑みを浮かべ、誰に言うわけでもなく呟く。
「随分と懐かしい顔を出してくれるじゃないですか」
ここに転がる死体たちの事は全て知っている、否、知っていたと言うべきか。
彼らは組織への裏切りや反逆、暗殺を企てた者として鳳が処刑したものたちだ。
「わーたくさん殺したねぇ」
不意に背後から声が聞こえ、鳳は反射的に振り返り――言葉を失った。
「短時間でこれだけの人数殺すなんて中々出来る事じゃないよ。少なくとも昔は出来なかった」
パチパチと拍手をしながら向かってくる人影。鳳よりも20歳は下だろうか、その背格好はかなり小さく髪も短い。
「ね、そうだったろう? “僕”」
紛れもない、幼いころの鳳・R・白明の姿がそこにあった。
「ほんとに…つくづく、イイ趣味してますねぇ…」
鳳がピアノ線を少年の鳳に向けようと手を動かした途端、
「ねぇ、復讐は出来たかい?」
少年の鳳は穏やかな声音で尋ねた。
鳳の手が止まり、僅かに目を見開いて目の前の少年を凝視する。少年はわが子を慈しむ親の様な目で鳳を見たまま口を動かす。
「劉兄さん――まぁ兄と呼ぶのも嫌だろうけど――あいつを殺したよね、一族も全部片付けた。
組織も手に入れて、拡大すらさせた。紅龍会に並ぶものはない。絶対的な力だ」
少年は無邪気に笑って血の海でくるりと回る。それはかなり異様な光景でありながら、不思議と目を離せない何かを感じさせた。
しばらくそうやって回っていた少年は不意にピタリと足を止め、ずいっと鳳に顔を寄せる。
「ねぇ、それで何か得られた?」
あくまで顔に浮かぶ表情は慈愛に満ちたもの、だが、その瞳の奥はもっと深い闇で湛えられていた。
「殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してコロシテ殺してころして殺して…それで何か得られた?」
「……僕は……」
言いかけた鳳を手で制して、少年は続ける。
「ないよね。何一つない。あったのは無だけ。ぽっかりと空いた大穴だけだ」
少年の声はどこまでも優しげだが、ドロドロに甘い砂糖菓子に隠された毒の様にその声は鳳の心を蝕ばもうとする。
「僕は……」
言葉はそこで消え、鳳はその場に膝を折った。髪で隠れた顔からは内心を窺う事は出来ない。
「僕らは20年の時間を費やしてここまで来た。すごい。ほんとにすごいよ。並大抵の人間に出来る事じゃない」
少年は動かない鳳に近づいて手を伸ばし、そっと髪に触れた。なめらかな動作で髪を漉き、その指先が髪留めに触れる。
「母様の髪留めだね。復讐を忘れないように、信じる気持ちを起こさせないように、ずぅっとつけてた髪留め。
ずっと一人で、重かったろう?ねぇ、本当に頑張ったよ」
だからさ、と少年は囁き、髪留めの結び目に力を込める。
「もういいんじゃないかな、休んでも」
それは悪魔の囁きに匹敵するほど、甘い声音だった。
「誰も文句なんか言わないさ。だってもう充分すぎるほどやる事はやったじゃないか。だから、ね」
ズッと髪留めがずれる。そのまま解けて落ちるかと思った瞬間――
「何を言い出すかと思えばそんなくだらないことですか」
今度は少年の動きが止まる番だった。鳳は立ち上がるなり自分で髪留めを掴んで勢いよく引っ張る。
戒めを解かれた赤い髪は、まるで翼の様にふわりと広がった。
「浅い、浅すぎて話になりませんね。よくやったかどうかなど、貴方は元よりこの世界の誰にも決めさせる気はないんですよ」
「欲しいならあげますよ」と髪留めを躊躇なく少年に放り、鳳は言った。
口元に浮かぶのはいつもと変わらぬ笑み。髪の下からのぞく瞳には余裕と強気が混在する光が灯っている。
「まだ休む気はありませんよ。この世界は復讐よりも面白いことに満ちてますから」
鳳は少年に背を向け、扉に向かって歩きはじめる。少年は静かな瞳でその背を見つめたまま問いかける。
「それが君の選択なの?」
「……嗚呼、一つ質問に答えてませんでしたね」
少年の問いかけに鳳は歩みを止め、言葉を紡ぐ。
「得たものはあったのかと聞きましたが、僕にはなくて当たり前です」
肩越しに少年の方を振り向いて、クスッと笑う。
「スリルと力と悦楽、僕が求めるのはそれだけです。なにせ僕は――」
マフィアですから。
鳳は今度こそ何のためらいもなく少年に背を向ける。そして扉のノブに手をかけ、
「さようなら。久々に面白かったですよ」
それを押しあけた。